北海道の最北端でもある名寄の地で、私は「もち米」と共に歩んできました。以前は、うるち米を作付けしていましたが、もち米作りを始めたのは昭和45年からでした。米にはうるちともちの2種類があり、うるちともちが混ざってしまうと品質の高い米を作ることはできず、苦労したものでした。また、当時の米は周囲から「やっか米」と見られ、業者さんには相手にされず、三等米を作るのが精一杯だったこともあり、米作りに悩んでいました。その時「稲の友の会」という団体があり、私の知人である木田さんを中心に活動していました。木田さんに声をかけていただき、私もその活動に参加することになり、それから私のもち米作りが始まりました。
もち米を作り始めた当初は水田面積の狭さに悩まされていましたが、昭和45年から基盤整備事業が始まり、十分な水田面積を確保することができました。そのおかげで昭和45年にはもち生産組合を設立することができました。もち生産団地になってから米の値段が高くなり、「名寄はもち一筋で行こう!」となりました。このような状況の中、もち米作りをすることにもちろん反対の声もありました。でも、何とか地域の皆さんの協力をお願いして、一軒一軒家を廻ったり、町内で会議を開いたりしていました。他にも7~8戸の田んぼを見て歩いて、もちに混ざっているうるちを抜き取り、うるちの混ざらないもち作りをすることに努めました。このような努力が認められ、名寄は「もち米だけを生産する」という方針に多くの人からの賛成を得ることができました。自分で食べる米は自分で作ろうと思っていましたが、もち米へのうるちの混入問題が深刻だったため、「自分たちが食べる米はお金を出して買ってでも、うる混のないもち米を作ろう」との意気込みで組合員の皆様に協力していただきました。ヨードチンキを持ち歩き、うるちともちを見極め、水田のうるちを抜き取りました。
苦労もありましたが、その分やりがいも大きいものでした。一番嬉しかったことは「先祖代々の老舗赤福さん」にもち米を買ってもらったことです。北海道米は相手にされず、赤福さんは九州の「ひよくもち」を使っていたのですが、私どもの農協前組合長(藤島さん)が赤福さんとご縁があり、北海道のもち米を使ってもらえるようになりました。九州のもち米はすぐに固くなりますが、北海道のもち米は固まりにくく、この特徴が赤福さんに受け入れられました。その感激をうけ、もち生産組合員全戸で積み立てをして、赤福さんの工場を見学させていただきました。自分たちの作っているもち米が赤福さんの倉庫に収められる様子を目の当たりにして、組合員がとても感激し、これが私として一番良かったと感じた瞬間でした。また、もち生産組合員の団結力も一層高まったと思いました。
これからも名寄のもち米が一番と、全国的に定着していけば良いと思っています。