私はもち米農家の3代目です。宮城県出身の父親が明治40年、20歳の時に名寄に来ました。入植当時は畑作でしたが、おそらく私が3歳か4歳のときに父親が水田を作り始めたのです。
私どもの開墾した畑には川の通った跡があり、地形は特に凸凹でしたが、とにかく早く水田を整備して米を作りたかったみたいです。当時はまだ機械なんて何もなかったから、人の力や馬の力で土地を平らにならし、地形にあわせてスコップであぜを作って水を入れていたらしいです。今では考えられないでしょう。朝6時から農作業を始めることもありましたね。稲刈りの時には暗くなるまで手で刈り取り、はさかけ(注1)をしていました。夜10時、11時くらいまで農作業をしていた農家もあったみたいですね。大抵の家では馬2頭を所有していて、田んぼをおこすにも、代掻き(しろかき)(注2)するにも馬を使っていました。苗を植えたり刈ったりするのも手作業、とにかくすごい時間がかかりましたよ。家族だけでは農作業は大変なので、出面さん(日雇いの作業員さん)に来てもらって、よくお手伝いしてもらいました。
昭和41年かな、普通は5俵/10アールとれるところが、0.6俵/10アールの米しか穫れないときもありました。昔は夏でも冬でもとにかく寒くて冷害の影響もあったから、できが良くなかったんだね。冷害対策のために水を深くする方法もあったんだけど、あぜが浅いから深くしたくてもできなかったんです。8月までずっと草取りをして、この作業もすべて手作業だったから爪が減ってなくなった。昭和45年頃からトラクター・田植機といった機械を使い始めるようになって、農作業が相当楽になりました。昔は本当に苦労の連続だったなあ。
昭和45年に減反政策(注3)が始まり、ちょうど米作りが軌道に乗り始めていただけに、そのときは腰が抜けたようでした。減反政策の影響を受けて、周りの農家では米作りをやめていく人が多かったですね。私たちがうるち米からもち米に変える10年くらい前から、名寄が先にもち米に切り替えていたんです。収入の面でもメリットがあると聞いていたし、もちは加工するのでうるちに比べると食味についてはあまりうるさく言われないんです。この風連でも十分に市場性をもって戦っていけるということで、昭和56年にもち米の全面作付けとなりました。
もち米の品種について話すと、もともとは「くりからもち」から始まったんですよ。紫の稲で混じり気のない純粋なもち米でした。だけども、殻が弱くて作りにくかったので改良されていきました。次に、「おんねもち」という品種が出てきました。しかし、この品種も着色被害を受けやすいこともあり、「たんねもち」という品種が開発されました。規格外品が多かった「おんねもち」に比べ、「たんねもち」は冷害に強く収量にも恵まれた品種でした。そして現在は「はくちょうもち」が主流です。「はくちょうもち」は白度が高く、さらに食味や加工適性も優良であり、一番品質が良く問屋さんには喜んでもらっています。
現在92歳ですが、5代目になる孫(33歳)にもち米作りを指導しています。丹精込めて育てた、うちのもち米をぜひ食べていただきたいですね。

(注1)刈り取った稲を稲木にかけて天日干しする乾燥法。
(注2)田植えの前に水田に水を入れて土の塊を砕く作業。
(注3)戦後、食糧管理法によって米は政府が固定価格で買い上げていたため意欲的に生産され、また肥料や機械による生産技術の向上、食事の欧米化などにより在庫が増えていった。そのため1970(昭和45)年、政府は新規の開田禁止、政府米買入限度の設定などを柱とした米の生産調整を開始した。

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