「もち米の里ふうれん特産館」は、平成元年に風連町のもち米生産農家7戸によって設立された。そこには、積雪寒冷地というこの地の条件と、もち米の一大産地であったことが関係している。積雪寒冷地という特性上、農業経営にとって冬期間の雇用確保は大きな課題であり、現実に都府県への出稼ぎが常態化していた。主の不在は残された家族にとっても大変な苦労であった。また、風連町はいち早くもち米生産団地を形成した一大産地であったが、硬化性の問題等から北海道のもち米は評価が低く、加工品の原料として道外へ出荷されており、産地における付加価値向上が課題となっていた。そんな中、名寄農協による赤福へのもち米供給を契機に、「赤福で製品として受け入れられる高品質の原料を地元で使うことはできないだろうか」という機運が高まってきた。こうした背景のもと、「自ら生産するもち米に付加価値をつける、冬期間の出稼ぎからの脱却、雇用の創出」を目指し、もち米生産農家であった堀江英一さんは特産館設立を仲間に呼びかけた。ただし、その条件は「夫婦で参加する事、報酬がもらえるのは5年後から、それまで利益が出たら機械投資にまわす(ただし、妻達には時給を払う)」というものであった。そんな堀江さんの呼びかけに、共にやろうと手を挙げたのが7戸の農家であった。風連農協所有の旧家畜診療所跡を改装して工場とし、風連町の補助金を利用して餅つき機を導入、切り餅作りからスタートした。当初、もち米加工品つくりについては全員が素人で失敗の毎日であったが、その中で少しずつ改良を加えて切り餅ギフトが完成した。平成5年に国道40号線沿いに直営店と事務所を開設。翌6年には有限会社化となった。
平成8年、農業者と外食産業者とのマッチングや農業勉強会等を主催する北海道農業者サロンにおいて、参加していたモスバーガー関係者と懇談する機会があり、ファーストフード店においてもち料理が提供できないかと話題になった。そして後日、モスバーガーとの契約が成立し、「玄米餅のおしるこ」が誕生する。当時は製造工場が小規模であり、衛生管理や生産管理などのノウハウの蓄積が乏しかったこともあって大規模な生産は困難が予想された。そこでモスバーガーは専門スタッフを派遣し、製造や衛生に関する様々なノウハウを提供した。使用しているもち米は除草剤以外の農薬は一切使用せず、減化学肥料で栽培したこだわりのものであり、秋冬限定販売として現在も続くヒット商品となっている。
平成11年には札幌のミキ食品との契約により、東京以北のセブンイレブンのおでん餅きんちゃく用のもちを納入することとなる。当時この商品には中国産のもちが使われていたが、それを国産の物に切り替えるとの話があり、特産館に声がかかった。通年で出荷するため、特産館の卸売りでは一番のウェイトを占め年間売上高の3分の1にまでなっている。
順調に業績を伸ばす特産館であったが、主力であった「切り餅」ギフトの製造・販売は冬期年末に集中し、夏期は需要が少ないため、従業員の通年雇用は困難であった。そこで通年でも一定の需要が見込める大福もちの製品開発に乗り出す。製造技術が未熟な面もあり、同社だけでは難しいと判断し、洋菓子製造メーカーのニシムラファミリーと共同開発することとなった。はくちょうもち最大の特徴である柔らかさを活かしつつ、製造後すぐに急速冷凍する事で、出来たての美味しさをそのまま届ける「ソフト大福」が平成14年に誕生した。マイナス50度まで下げられる冷凍機を使い、「流通のために冷凍しなくてはならない」というマイナス面を「より美味しくするための冷凍」というプラスの発想へ転換。現在、味は18種類にまで増え、切り餅をしのぐ同社の主力商品となっている。
平成20年、隣接する場所に道の駅「もち米の里☆なよろ」が建設され、入札、選定により特産館が指定管理者となった。直営店にあった売店とレストランを道の駅に移転、地元特産品や農産物の販売にも力を入れ、平成24年には北海道じゃらん「行って良かった道の駅ベスト10」にて堂々の第1位を獲得、道内に「名寄」の名前を広く知らしめている。