昭和40年代に入り、米は過剰気味であった。「不味い米は買わない」「道産米には価格差をつけよ」など、何かにつけて道産米には不味い米の代名詞としてのレッテルが張られ、消費者にもそのイメージが広がっていった。特に北限地帯の農家は大きな不安を抱えることになった。そのような情勢下、名寄農協ではもち米に対する検討が加えられた。その結果、①冷害に強いことが最も重要な要件、②市場における道産米の中でうるち米は府県産米に比べて65%の評価しかできないが、もち米は80%の評価をする、③うるち米の混入のないものを望まれている、④もち米加工をする場合、同一品種が同一産地から大量に出荷されると加工業者にとっても大きなメリットになる、⑤特にもち米は種子が退化しやすい欠点を持っているが、上川生産連の種子センターができ、この種子を全面的に導入する事によって安心した生産ができる、などからもち米の生産団地づくりに踏み切ることとなった。
昭和44年の秋に初めて種子センターに46年度用の稲作種子申し込みが取りまとめられた。もちの種子申し込みは1,000キロだったが、農協独自でさらに3,000キロの追加申し込みをし、45年度中にもち米を奨励するように計画した。
昭和45年、道の助成を受けて江丹別、朝日町などがもち米生産団地に決定したとの新聞記事を見た名寄農協は、名寄もその中に加えてほしいと生産連に要請。追加する事が無理であれば、せめて種子の配分だけでもと再三にわたって交渉。生産連もその熱意に八方手をつくして「おんねもち」、「はやもち」ともに7.5ha分を確保した。
これを契機に昭和45年、生産団地づくりのためには生産組合づくりが先決として賛同者が集まり準備を進め、4月に名寄市モチ生産組合が設立した。作付面積も増加し、47年には16,000俵、50年には全出荷の7割強となる38,200俵が出荷され団地形成が軌道に乗った。質の向上を目指し共同防除、うるち米の混入防止など徹底した取り組みが行われたが、一等米は皆無の状態が続いた。品種も「おんねもち」「たんねもち」が主力となっていくが、それでも2級止まりであった。しかし、もち米にダブつきがなく何でも買ってもらえる時代背景があり、名寄のもち米はあられ、醤油の原料となっていたため、品質の高いものが求められることはなかった。同時に農家の意識は質より量という点に強く傾いていた。
昭和62年、藤島庭二組合長が出張の際に三重県伊勢市に立ち寄った。そこで伊勢参りの土産として有名な「赤福もち」の看板を目にし、名寄のもち米を売り込むため会社に飛び込んだ。この結果、翌年に一等米2,000俵の買い入れの約束を取り付けた。赤福は品質の厳しさには定評があり、そこに出荷できることはもち米としての品質に折り紙を付けることとなる。ただ、約束はしたものの大きな問題が残った。名寄では一等米はほんの一握りで三等米中心の出荷。2,000俵の一等米という数字が大きく不安となってのしかかった。信用の問題にも発展しかねない状況下であったが、翌年、6,000俵が一等米という奇跡的な数字を確保した。
名寄の米は赤福で生き抜くことができると胸をなで下ろし、米を送り込んだが、また厚い壁にぶつかる。食糧事務所の検査では一等米として送り出した米だったが、着色粒がありすべて返還という事態に。赤福では、一粒の着色粒でも認めることはできないという強い姿勢であった。藤島組合長は赤福に出向くと対応策を話し合い、米の卸業者三滝商事の工場で、色彩選別機にかけて着色粒を排除した。一俵あたり千円の経費が必要となったが、これがその後の良質米作りに生かされていく。さらに主力は「たんねもち」から「はくちょうもち」に移り、赤福の評価は一段と高まっていった。
その後も名寄のもち米生産団地は種子の全量更新、全面積もち米作付などでうるち米混入を防止。適期刈り取りの実施、色彩選別機導入で品質向上に取り組み、実需者から高い評価を受け産地指定へとつながっていった。
昭和42年に過去最高の大豊作に恵まれ、うるち米出荷数量は245,000俵を数え、道北屈指の米どころとして発展してきた風連町。風連農協においても米の増産に向け、土地改良、農地整備などに精力的に取り組んでいた。
しかし、次第に生産過剰や余り米が問題視されるようになり、44年の米価据え置き、新規開田抑制、自主流通米制度の導入に続いて45年から減反政策が始まった。休耕から転作へと変わり、米を作りたくても作れない時代となった。こうした農業政策の変化は風連農協の経営にも大きな影響を与え、昭和33年のピーク時に1309戸あった組合数も50年には985戸と大台を割った。農家の生産意欲を逆なでする国の農政への不信感が強まり、離農に拍車がかかった。くしくも農業の近代化が本格したのもこの時期で、機械化、技術革新による生産力の飛躍的増大と、国民生活の変化や食の多様化などによる米消費量の大幅な減少の結果として、生産過剰を理由に大幅な減反が実施された。
厳しい減反政策の中、より安定した稲作を目指してうるち米の作付けをもち米に転向する農家が増加してきた昭和56年、もち米生産者が集い、風連町もち米生産組合が設立。59年にはもち米団地指定も決定。農協を中心に関係機関あげての取り組みが実を結んだ結果であった。さらなるブランド米として発展させるべく、もち米割当増を要望したところ、昭和62年の国が進める水田農業確立対策を機に大幅割当増となり、他用途利用もち米と合わせて1,118haと単位農協作付けで日本一のもち米生産団地となった。
平成8年には風連産米の価値向上を目指し、風連町良質米生産組合を組織。1等米生産出荷対策に取り組み、うるち米1等93.8%、もち米1等86%の好成績を記録。風連町は道内屈指の良質米産地となっていった。
平成の大合併による名寄市と風連町の合併協議が進む中、それに先がけて平成17年2月1日、名寄・風連・智恵文の3農協が合併し、新たに「道北なよろ農協」が発足した。もち米生産においては、単位農協作付けで全国一であった風連地区に、以前から全量もち米を作付していた名寄地区が加わることにより、もち米の作付面積は道内の3割に相当し、平成26年度実績でもち米作付面積3,062.179ha、販売数量309,582.5俵を誇る全国一のもち米産地となった。