名寄の米作りが、試作段階から本格化するのは大正末期である。
大正中期に全盛を迎えていた畑作は、豆類、雑穀、馬鈴薯澱粉、薄荷など価格変動の大きい作物であり、第1次世界大戦後の不況による価格の暴落などを受けて損失を出す人が目立った。より安定的な稲作に目を向ける農業者が増え、この後、急速に造田へと向かった。
この時期の稲作の伸展には、品種や栽培方法の改良が大きく関わった。初期に多かった耐寒性の赤毛種に替わって、大正10年頃からは病気に強く多収の坊主種を主に、品種改良がなされた。栽培方法では、初めは籾直播だったが、苗床を利用し、早期植付・早期収穫で早霜の被害を避ける努力が図られた。
また、造田を支えたのは土功組合である。「土功」とは、「切土」や「盛土」を意味し、水利権を伴う灌漑施設の建設・維持管理事業を集団で行う。明治35年に「北海道土功組合法」が制定されたのを機に各地で結成が進んだ。5人以上の土地所有者が発起人となれば、組合設立が北海道長官により認可され、用水路などの施設事業への融資を北海道拓殖銀行から受けられた。名寄では、明治42年に名寄土功組合(徳田宇太郎ら)が設立した。同組合法による6番目の設立で、風連別川上流から取水し、多寄村(現風連地区)と上名寄村(現名寄地区)南側に利水した。
当初からの申し合わせによる水利組合に加えて多寄(大正2年)、名寄太西(同11年)、中名寄(同12年)、風連(昭和2年)、風連南(同3年)、名寄東(同4年)、忠烈布(同6年)西多寄(同8年)などの土功組合が設立され、灌漑設備の充実とともに地域に水田が広がり、昭和初期には米の収穫量が急増した。そのほとんどがうるち米であり、「走坊主」「富国」「農林」などの早稲品種が多く、もち米は「クリカラモチ」「北海糯」などが作付けされたがわずかであった。
当時の水田単作農業には冷害や水害の危険が伴った。稲作北限地に近い名寄周辺では特に気象変動による作柄への影響が大きく、昭和6年、7年、9年、10年の全道的な冷害凶作年には、収穫皆無になる農家が少なくなかった。これらの年には、町村による救農土木事業や民間の救済活動も行われた。近隣の美深町、智恵文村(現智恵文地区)では、昭和初期以降、水稲作付は減少するが、名寄・風連地区では栽培技術を高めながら水稲中心の農業が続けられた。