明治32、33年頃から開拓が始まった名寄では、当初、自家用食糧を得るために馬鈴薯やイナキビ、アワ、麦類などを作付けたものの、数年の内に稲作に挑戦する人が現れ始めた。試作で収穫が少なくてもあきらめずに継続したのは、「お米のご飯を食べたい」「正月にはもちを食べたい」という開拓者の願いであったろう。大正時代、開墾面積の増大とともに換金できる麦類、豆類、菜種などの生産が増える一方、本格的に稲作に取り組む人は、まだ少なかった。米は南国原産の作物で、寒冷な道北には難しかった上、灌漑設備に負担が大きかった。